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2018年5月31日 研究会「記号上の復興――エフェメラが形成する戦後東京像」開催報告

  • 更新日:2018年06月04日

2018年5月31日(木)、18時48分から20時45分まで、法政大学市ヶ谷キャンパス・ボアソナード・タワー25階B会議室において、法政大学江戸東京研究センター(EToS)「アートとテクノロジー」グループの研究会が開催された。今回は大澤啓氏(東京大学総合研究博物館)を招き、「記号上の復興――エフェメラが形成する戦後東京像」と題して報告と質疑応答が行われた。司会はEToS研究員で法政大学文学部教授の安孫子信氏であった。

大澤氏は美学、美術史学を専門とし、現在は戦後の日本における前衛芸術や図像資料の検討などを行っている。今回の報告では、大澤氏が計画時から携わったJPタワー学術文化総合ミュージアム「インターメディアテク」が2016年から行っている連続展示「東京モザイク」での成果を踏まえた資料の紹介と考察がなされた。

大澤氏による報告の概要は以下の通りであった。

従来の東京そのものを研究する「東京研究」では、東京の都市計画についての検討は数多くなされてきた。しかし、図書館や博物館に収蔵されていない、あるいは資料収集の対象となっていないちらしやパンフレット、グラビア雑誌などの一時的印刷物(エフェメラ、ephemera)に関する研究はまだ十分になされていない。そのため、エフェメラを大量に収集して分析することは、エフェメラが作られた当時の東京像をより実像に近い形で明らかにすることに役立つ。

ところで、周知の通り、太平洋戦争が終わった後、日本は連合国を代表してアメリカ軍に占領された。そのため、日本各地にアメリカ軍の将校や兵士が駐屯し、とりわけ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれた東京には多数のアメリカ軍関係者が滞在することになった。エフェメラという観点からは、日本の行政当局が日本の復興のためにエフェメラを活用したのに対し、アメリカ側は「日本の復興」といった日本側の視点とは異なる興味と関心からエフェメラを利用した。

終戦直後に日本人が日本人向けに作ったエフェメラの代表的な例として挙げられるのが、1945年4月25日に文化社から刊行された『東京 一九四五年・秋』である。木村伊兵衛らが写真を撮影し、序文に「今の東京は、まだ病後である。都市とよばれるにはまだ遠く、たえまのない注射と輸血、さういふ手當によって、からうじて歩き出したばかりである」と書かれている『東京 一九四五年・秋』には、廃墟と化した東京の様子とともに、日本を表現する際に戦前から常套的に用いられていた「古代とモダニズムの融合」という像が収められている。また、『アサヒグラフ』1945年11月15日号の特集「空から見た東京の焼跡」には東京の空撮が掲載されている。現在では当然のようになされている空撮ではあるものの、戦前には「東京の空撮」そのものが珍しかったことから、「空から見た東京の焼跡」は戦後だからこそ実現した特集と言える。

一方、アメリカ軍の進駐という状況を受けて、終戦後の早い段階から、日本国内ではアメリカ軍関係者や来日する外国人に向けた英文雑誌や観光案内の類が出版された。1945年12月に出版された『帝都近傍図』は「戦災被害図」を掲載するとともに裏面に英語で表記された関東地方の略図を印刷しており、「外国人に役立つ図」の嚆矢と言える。また、東京都が作成した在日外国人向けの案内図である『東京・近県案内図』(1947年)は駅などの都市のインフラだけでなく娯楽施設なども記載しており、戦後の日本で作られる観光案内図の原型をなしている。

また、進駐軍の意向を反映する形で様々な進駐軍向けのエフェメラが作成された。1940年代以降に作成された『東京近郊観光旅行』は英語による観光案内図であるし、『ようこそ――これが日本だ』(1950年)は進駐軍向けに作られた観光案内図である。あるいは、アメリカ軍の事実上の機関紙であるStars and Stripは1955年に“See Japan”(日本を見ろ)という特集を組んでいる。「日本を見よう」という表現は戦前の日本の宣伝活動、戦後のアメリカ軍の観光政策、そして現在の日本政府の観光行政に共通する要素であり、戦前から現在に至る連続性を考えるうえで興味深く思われる。さらに、1945年以降に作られたアメリカ軍関係者向けの土産用写真には鎌倉、富士山、皇居、明治神宮といった観光名所だけでなく、廃墟となった東京なども含まれている。このような混沌とした土産用写真の組み合わせは、戦後の東京の混沌さの原型と考えられるのではないだろうか。

このようにエフェメラを大量に集めて比較すると、日本人向けの資料はざら紙に質の悪いインクを用いて印刷し、現在では多くが酸化しているのに対し、アメリカ軍関係者向けの資料は同じ印刷所で発行されているにもかかわらず紙やインクの質が上等で現在も保存状態がよいなど、質的な違いも明らかになっている。

さて、1945年10月の『アサヒグラフ』が「英字の氾濫」という特集を組んでいるように、戦後の東京では街中にも英語が頻繁に目につくようになった。また、1945年11月には国連軍主催のロデオ大会が開催され、パンフレットにはディック・ライアン中佐が昭和天皇の愛馬である初霜を接収して騎乗している旨が書かれている。実際にはライアン中佐が乗ったのは初霜ではなかったものの、このような話題が得意げに書かれているという点にも、アメリカ軍が日本に対して臨んだ姿勢の一端がうかがわれる。

これに加えて興味深く思われるのが、戦後の東京の表象の方法の変化である。例えば、1949年にハンフリー・ボガードが主演した映画『東京ジョー』は戦後の東京を舞台としているにもかかわらず、撮影スタジオに作られた街並みの様子は1930年代の東京を再現している。また、日本在住の外国人に向けた発行された雑誌Viewの1952年6月号の特集「東京――東洋の新しい上海」は、東京を訪問する外国人に1930年代の上海を連想させるような写真を掲載している。これは、1945年12月27日に封切られた斎藤寅次郎の監督作品『東京五人男』は、喜劇であるにもかかわらず廃墟と化した東京の様子を映し出しているのと好対照をなしている。このような相違は、大都市が形成するイメージは常に他の都市との比較や同じ都市の過去、あるいは架空の都市との比較を伴っていることに由来しており、戦後の東京を1930年代の上海になぞらえる試みは、戦前からの都市の連続性を示唆するものである。

あるいは、『新東京案内精図』(1947年)は「東京案内」と称して、東京の都市計画を「アヴェニュー」や「ストリート」といった米国の概念によって説明しようと試みているし、東京都が発行した『東京広報』1959年6月号では「東京の顔は汚れている」と題し、街を清潔にし、景観も改善しようとする東京都主導の政策を都民に訴えている。このような事例は、エフェメラがアメリカ軍主導から日本政府や全国の自治体の主導へと徐々に変化したことを物語っていると言えよう。そして、『東京広報』「東京の顔は汚れている」という特集が訴える街の美化という点に着目し、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3名によって1963年に結成された前衛芸術集団「ハイレッド・センター」が、白衣姿で路面を雑巾でこする様子などを収めた『首都圏清掃整理促進運動』を1964年10月に刊行し、あるいは「ハイレッド・センター」が活動した場所を地図にまとめた『ハイレッド・センター』が1965年に出版されるなど、東京が前衛的な芸術活動の舞台となり、東京の主観的な地図が作られるようになっている点も見逃せない。

これらとともに、戦後の東京の特徴の一つとして挙げられるのが、新しい名所が次々と誕生するという点である。1958年の絵葉書『新東京名所』には竣工間もない東京タワーも描かれているし、東京の名所を巡るはとバスも、東京観光の象徴として人々の間で定着した。このような観光のあり方が、ある意味で東京のビジュアル・アイデンティティを変化させたと言えよう。また、1961年に朝日新聞社が出版した『TOKYO/東京』は、開高健が1963年から1964年まで『週刊朝日』に連載したルポルタージュ「ずばり東京」と同じく、東京のあるがままを映し出そうと試みている。このような試みは、1962年に富士製鉄の依頼を受けて岩波映画が制作した土本典昭の監督作品『東京』(1)にも通底する。実際には『東京』(1)は、日本の資源を把握することを目的としていた富士製鉄側の意向に沿うものではなかったために一般には公開されず、各務洋一を監督に迎えた『東京』(2)が作られることになった。しかし、観光客の視点で都市を撮影し、無難な仕上がりとした『東京』(2)に比べ、『東京』(1)は都心部まで電車で1時間以上かかるベッドタウンから毎朝の「通勤地獄」に耐えて仕事場に向かう人々の様子などを収めており、当時の人々の実態を知る上で貴重な手掛かりとなっている。

このように、エフェメラの内容を比較検討することで、エフェメラの作り手の意向や作り手の違いによる内容の変化が明らかになるだけでなく、作り手が人々に与えようとした東京の印象の変遷も知ることが出来る。さらに、実際には廃墟と化した東京があるにもかかわらず1930年代の東京の様子を再現したセットで映画を撮影したり、東京を1930年代の上海に例えるといったことは、実際の復興の進捗の度合いではなく、記号の上で東京の復興が進んでいたことを示しているのである。

長期の保存を前提としないエフェメラを網羅的に収集し、得られた資料を比較検討することでこれまで見過ごされてきた戦後の東京の姿を考察した大澤氏の報告は、江戸東京を「アートとテクノロジー」の側面から研究するための重要な手掛かりを与える、意義深いものであったと考えられた。

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【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学江戸東京研究センター客員研究員)】

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