シンポジウム・研究会等報告

2018年10月26日 研究会「岡村民夫氏を囲む研究会」開催報告

  • 更新日:2018年10月29日

2018年10月26日(金)、18時30分から20時35分まで、法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナード・タワー25階B会議室において、法政大学江戸東京研究センター(EToS)「テクノロジーとアート」研究プロジェクトの第3回研究会が開催された。

今回は岡村民夫氏(法政大学教授)を招き、「立原道造--故郷を建てる詩人」と題して報告と質疑応答が行われた。司会はEToS研究プロジェクト・リーダーで法政大学文学部教授の安孫子信氏であった。

岡村氏による報告の概要は以下の通りであった。

 

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立原道造は夭折の詩人であり、東京帝国大学で建築学を学び、卒業後は建築事務所で活動したモダン建築家として知られる。24歳で結核により没したために建築家としての立原が残した作品は少ない。しかし、数少ない例外の一つが現在は神奈川県横須賀氏の聖ヨゼフ病院で、この病院は元来海軍の下士官や家族のために作られた横須賀海仁会病院であり、建物は立原が設計している。だが、聖ヨゼフ病院は建て替えが決まっており、建築家としての立原の成果の一つが失われることになる。この他に立原が設計した建物としては、1938年10月に竣工した秋元邸がある。秋元邸については十分な資料がないものの、『住宅金融月報』第494号に全景が撮影されており、不完全ながらも立原の設計した建物の一端をうかがい知ることが出来る。

建築家としての立原は、シェリングやハイデガーなどの実存哲学に影響を受けており、「住」ないし「人生」を核とした建築哲学を持っていた。立原の考えの一端は、出版されなかった原稿「建築衛生学と建築装飾意匠に就ての小さい感想」の中の「すべての建築が訓尾根本に横はるものは・・・決して徒らな算式の羅列である建築構造学であつてはならにと思ひます」という一文からも推察される。そして、立原は一般に「現実味のない観念の世界に遊ぶ詩人」と考えられているものの、建築家としては「美」よりも「住」を優先する現実派であった。また、立原が評価したのは「住みよい」建築物ではなく、「住み心地よい」建築物であった。実際、立原は建築を空間の筝からだけではなく、人間的生と建築の関係を重視し、時間の中で捉えることを重視し、時間の中における建築の表象として文学や映画を評価していたのであり、立原にとっての「住」の場所はモダン建築ではなく、立原が生まれた日本橋蛎殻町の家、ヴァナキュラーな町屋なのだった。

ところで、日本橋橘町の生家での立原は、東京帝国大学に進学するのとともに屋根裏部屋に移っている。そして、友人の回想では「彼にあっては・・・屋根裏に住むことが・・・彼の建築であった」というように、屋根裏部屋での生活は立原にとって大きな意味を持っていた。しかし、屋根裏部屋は決して住みやすい場所ではなかった。そのような住みやすくはない場所に自らの部屋を移した立原は、実体験に基づいて建築家としての活動を行ったのであり、「住みよい」場所ではなく「住み心地よい」場所を求める態度も観念の産物ではなく、自らの経験から導き出した考えであった。その意味で、自己の体験に立脚したことが、立原を単なる「モダン建築家」以上の存在にしたと言えるだろう。

 

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さらに、立原の足跡を考える際に重要なのが「故郷」の問題である。立原にとって「故郷」は常にあるものではなく、「行ったり来たりするもの」であり、立原の不在中に訪れるものでもあった。また、屋根裏部屋や病気といった記憶と結び付くものが、「故郷」であった。そして、立原は師事した堀辰雄の勧めで知った浅間山麓を「故郷」と見なした。しかも、立原のみでなく、小林英雄、堀辰雄、室生犀星ら立原に先立つ世代の人々も「故郷喪失」の感覚を抱いていた。その意味で、立原の「故郷」の感覚は、同時代の作家たちとの対比からも検討することが可能となるだろう。

このような立原は、モダンな建築の中に伝統的な要素を取り入れたのである。実際、立原が軽井沢の追分の高原に夢見た芸術家村は、モダンで人工的な故郷であったし、主要道路沿いに路面式に配された商店街や中心部はかつての宿場町を髣髴とさせるものである。さらに、浅間山そのものも、立原にとって重要な意味を持つ場所であった。

立原は、浦和の郊外に、芸術家コテージを連想させるヒアシンスハウスを作る計画を立てていた。残念ながら立原の生前にヒアシンスハウスが完成することはなく、立原の没後65年となる2004年に立原が残した図面などを基にヒアシンスハウスが竣工した。ヒアシンスハウスの西側の一角は、日本橋橘町の立原の生家の屋根裏部屋を連想させるつくりとなっている。従って、ヒアシンスハウスは薄暗く閉じた空間としての「生家の屋根裏」と自然に開かれた明るい空間としての「浅間高原」を統合した建物であり、生家の屋根裏部屋と同じトタン屋根を葺くバラック的、看板建築的な建物でありながら、内部はランプや机、椅子、ベッド、本棚などが適切に配置されており、まさに「住みよい」建築物であるよりも「住み心地よい」建築物であることを評価した立原の理想を体現していると言えるだろう。

最後に、立原を含む江戸東京人にとっての「故郷」とは何であろうか。江戸東京人は、1923年9月1日の関東大震災によって自らの生まれ育った家や場を失ってしまった。そのような江戸東京人にとって、「故郷」とは失われた場を補うための人工的な存在であり、「仮の故郷」、記憶やノスタルジーの中の存在でもあったのである。

 

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詩人として知られる立原道造のもう一つの側面である建築家としての業績に焦点を当てることで、建築や芸術と生の関係、さらに江戸東京人にとっての「故郷」のあり方についての問いが発せられたことは、今後の江戸東京研究に大きな意義を有すると考えられた。

【記事執筆:鈴村裕輔(法政大学江戸東京研究センター客員研究員)】

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