2019年7月6日(土)13時30分から17時30分まで、法政大学 市ヶ谷キャンパス 富士見ゲート G602教室において、江戸東京研究センターと法政大学地理学会との共催で、「東京と江戸をつなぐ~風景と場所」と題し、第2研究プロジェクト「江戸東京の「ユニークさ」」のシンポジウムが開催されました(参加者188名)。本シンポジウムでは,建造環境などに残された痕跡や絵図や写真など刊行物に投影された描写を手掛かりとして、現代「東京」に見られる「江戸」や近代期の「東京」を探し出すとともに,「変わるもの」および「変わらないもの」についての検討を通じて,「江戸東京」の個性の一端を明らかにすることを目的としました。報告者は米家志乃布(本学教授)、牛垣雄矢(東京学芸大学准教授)、コメンテーターは根崎光男(本学教授)、横山泰子(本学教授・本研究センター長)、趣旨説明と司会は小原丈明(本学准教授)により、シンポジウムはとり行われました。
米家による第1報告では、「近代の名所図会・絵地図からみる江戸のイメージ」と題し、近代東京の代表的な名所図会である『風俗画報』別冊の「新撰東京名所図会」を中心に、明治期に生きる当時の人々にとっての東京名所のイメージが検証されました。その際、東京名所の表現方法、編著者の東京名所編集の意図、図像の特徴から読者が受ける名所イメージ、風俗画報における京都や大坂のイメージとの比較、という観点から東京の名所風景の特徴を読み解くことが行われました。
新撰東京名所図会の編纂目的としては、明治以後の「新景」を記述することを目的とすることが第一であるとされ、「細密優美なる図画」でもって江戸名所図会よりも正確な図会を作成することが重要であるとされています。新撰東京名所図会では、挿絵として山本松谷の石版画が中心となり、それに加えて多くの写真が掲載されました。ここで注目すべきことは江戸名所図会も時折挿入されており、挿絵・写真・江戸名所図会・地図という風景表現の媒体の点数を東京15区別に概観することで、四谷区をはじめとした麹町区の西側の区では写真表現が少ないことが明らかになりました。
次に、法政大学周辺地域の旧東京市3区(麹町区・牛込区・四谷区)を対象とし、近代東京の地域的特性を表現したものと江戸名所図会で表現された風景の特徴が紹介されました。また、同じ『風俗画報』別冊として編纂された「京都名所図会」や名所図会としては編纂されなかった大坂の記述表現との比較も行われました。その結果、「風景」を対象化する眼差しは、江戸時代後期にすでに「真景図」(や広重の浮世絵)によって確立しており、この眼差しにとっては、絵画よりも写真が優れていたことから、「風景」を対象化していくうえで写真にかなわない絵画は、人物を焦点に据えた場所の描写、体験の描写、に特化していくのではないか。それが最終的には風景表現は写真中心へとなっていくことが指摘されました。また、東京名所図会の挿絵・写真は、近代化した「新景」の東京であり、一方で、江戸名所図会の挿絵で示された東京のなかの「江戸」のイメージは残存したまま、読者にとっては「「旧観」の何たるを知る」手段となっていました。つまり、「東京」と「江戸」はセットで把握されるべきものであったといえるでしょう。京都や大坂の表現は、東京ほど過去の「江戸」を意識した記述や構成にはなっていないことも特徴的でした。これこそが、変化の激しい「東京」の風景表現であったといえると結論づけられました。
牛垣による第2報告では、神楽坂地区における地域的個性の形成と変化についての検討がなされました。日本初の近代都市計画である東京の市区改正事業において,幹線道路が指定され路面電車が敷設され、それ以降,道路は「交通」という観点での合理化が図られたが,買い物や子供の遊び場といった多様な機能はなくなり,賑わいは喪失したことが指摘されました。幹線道路沿いでは高い容積率が指定されたために大規模で高層な建物が建設され,高地価により地価負担力の弱い個人商店は撤退し,チェーン店が集積します。一方,神楽坂を通る早稲田通りは幹線道路の指定から外れたため,大規模な開発やチェーン店の集積は遅れました。
商業経営の合理化により一律の商品やサービスを提供する店舗が広がった社会を,ジョージ・リッツアは「マクドナルド化した社会」と呼び、チェーン店は,規模の経済によって安価で高品質な商品を提供し,予測が可能で,当たり障りのないサービスを提供し,安心感を与える等の長所があります。反面,客同士や店員と客との人間関係が希薄で,商品を発見する喜びがなく,どこでも同じ外観で同じ商品を扱うために消費の経験が均質化する等の短所があります。地球表面上の場所的な差異が生じる理由を究明する地理学にとって,消費空間の場所性が喪失することは大きな問題となります。また消費の経験を「どこで」行うかに固有の意味をもたないことは,消費に関する「経験の豊かさ」を損ねているともいえるでしょう。
神楽坂は,東京の都心周辺に位置する都内有数の飲食店街であり、かつては料亭街として賑わい,今日でも都心の近くにありながら昔ながらの景観を残している場所です。神楽坂の料亭は,日清戦争後の好景気によって集積し,当時は周辺の軍事施設の軍人や早稲田大学の書生らによって利用されました。毎晩のように開催され賑わった縁日も,夜の歓楽街の発展に貢献しました。市区改正事業の議事録によると,神楽坂は勾配が急であり路面電車を通すことが困難であったため,都心から北西方面へのびる幹線道路の指定から外されましたが、これにより江戸時代の狭い道路幅員を踏襲し,早くから歩行者専用道路としたことで縁日の賑わいをもたらしました。神楽坂における歓楽街の形成は,地形的要素の影響が大きいといえます。
第二次世界大戦後は,商談の場としてゴルフが利用され料亭は激減し,料亭と取引関係にあった他業種にも大きな影響をもたらしました。料亭の跡地では大規模な高層マンションが建設され,その際には景観保全派による反対運動も生じます。
神楽坂の中高層建築には空室率の高い建物も多く,そういった場所で新たな大規模開発が生じる可能性もありました。一方で,神楽坂の中高層建築はかつての料亭の狭い敷地を踏襲しているために建物面積が小さく,その上層階には多くの飲食店が入居し、更に近隣の日仏会館の存在によってフレンチレストランが立地し,その後に他のエスニック料理店なども集積して多様な業種からなる飲食店街が形成されました。近年では「神楽坂」の名称はブランド化されつつあります。神楽坂では,料亭を利用する男性の街から食に関心をもつ女性の街へ,また料亭という伝統的な地域から食に関する流行の発信地への変化がみられます。このように神楽坂は,商業空間の近代化から免れたことで,固有の発展をみせている、と結論づけられました。
根崎による米家の第1報告へのコメントでは、「江戸名所図会」と「新撰東京名所図会」を比較してみると、江戸の図会が同時代を描きつつ考証を通じて過去との繋がりを重視したことに対し、明治の図会は同時代の新風俗そのものを描くことで新しい時代の到来を人々に直視させようとしたところに違いが見られることが指摘されました。また、名所を明治の図会では東京市15区という行政単位を意識しつつ選び、江戸の図会がそれよりもさらに広域的に扱っているのはそれぞれの時代の要請に応えたものであろうか、と問題提起がなされ、これについても後ほどの総合討論においても活発な議論が展開されました。
横山による牛垣の第2報告へのコメントでは、「東京と江戸をつなぐ」という観点から、江戸文学における神楽坂についての補足がなされました。神楽坂という名称について、市ヶ谷八幡や若宮八幡の祭礼の神楽との関係が考えられており、また、坂の上の善国寺の縁日が有名だったことが黙阿弥の作品などからわかることが指摘されました。同時に、夜は静かで寂しい場所であったことも随筆等から明らかであったこと、近代化とともに神楽坂の風景は一変したけれども、宗教的・芸能的な場としての神楽坂の性格は保たれているのではないか、と述べられました。
総合討論では,『新撰東京名所図会』の対象とする範囲や場所,対象物,編纂された時代性について,交通整備など都市開発に伴う場所性や場所感覚の喪失などについての議論が交わされました。そして,米家報告で取り上げられたそれぞれの名所や,牛垣報告での神楽坂などブランド化された地域に関する共通点として,地域の範囲や地形など「変わらないもの」による場所性の形成が重要であることが問題提起されました。
以上、報告・コメント・総合討論ともに、多くの論点が提起され、人文地理学の方法論による江戸東京の地域的個性を論じることが、江戸東京という都市の過去・現在・未来を見通す大きな課題であることが示唆された大変有意義なシンポジウムでした。来場してくださった皆様に感謝申し上げます。
(文責:米家志乃布)