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2019年08月02日 研究会「近代東京と「スポーツの都」」開催報告

  • 更新日:2019年08月05日

   去る2019年8月2日(金)、15時から17時まで法政大学市ヶ谷キャンパス 大内山校舎4階Y402教室において、法政大学江戸東京研究センター第2研究プロジェクト「江戸東京の「ユニークさ」」主催の研究会「近代東京と「スポーツの都」」が行われた。報告者は鈴村裕輔氏(名城大学)、司会は横山泰子氏(法政大学)、コメンテーターは陣内秀信氏(法政大学)であった。
報告の概要は以下の通りであった。

   人類に普遍的な現象である「スポーツ」(英語:sports、ラテン語:dēportāre)は、語源的には「日常生活からの逃避」、すなわち「余暇」や「娯楽」としての「スポーツ」を意味した。「スポーツ」の基礎は信仰と闘争を祭典競技の形で結び付けた古代ギリシアで形成され、「神への捧げ物」としての競技会はローマ時代になって「見るスポーツ」へと移行した。その後、中世になると「スポーツ」は王侯貴族から市民の間に普及し、イギリスでは16-17世紀にかけて貴族階級の子弟に「スポーツ」の実践が奨励された。18世紀に入るとイギリスにおいて「スポーツ」の規則や規範の整備が進み、国や地域、民族、宗教、習慣などを超えて規則、施設、用具、規範などが標準化される「近代スポーツ」が誕生し、1896年に近代オリンピックの第1回大会がアテネで開催され、「スポーツ」はより国際的に伝播した。このように、長らく王侯貴族が主な担い手であった「スポーツ」は、経済・社会制度の発展とともに一般に広く普及して今日に至っている。
   日本における「スポーツ」のあり方も、『日本書紀』の野見宿禰と当麻蹶速の力比べの伝説が示すように、闘争と信仰という性格を備えている。奈良時代には貴族の間で鷹狩、競馬、打毬、蹴鞠などが行われ、室町時代以降、剣術、柔術、弓術、槍術などが発展し、江戸時代に入ると武術が実戦的価値を失う一方で、儒教の影響を強く受け、精神修養の一環となった。また、多くの武術は武士や富裕な町人などが主たる担い手であり、王侯貴族を中心に発展したヨーロッパにおける「スポーツ」と類比的である。そして、欧米の「近代スポーツ」は明治時代に入って本格的に導入され、大衆の間で「娯楽」、「余暇」としての「スポーツ」が普及した。欧米各国における「スポーツ」の普及が1860年代に本格したことを考えれば、日本は欧米の潮流と約10年程度の差で「近代スポーツ」を導入したことになる。さらに、「近代スポーツ」の特徴の一つである組織化については、1911(明治44)年に嘉納治五郎(1860-1938)が大日本体育協会を設立し、1912(明治45)年に日本が最初のオリンピック(第5回ストックホルム大会)に参加したことが注目される。
   ところで、日本には明治時代に入ると野球、サッカー、テニス、ラグビー、ゴルフ、バレーボール、バスケットボール、スキーが紹介された。これらの競技のうち、最も普及したのは野球であり、世界的に見れば広範な地域で普及したサッカーは長らく野球の後塵を拝することになった。それでは、何故日本においてサッカーよりも野球が普及したのであろうか。この問いに対する回答の一つとして考えられるのが、多くの「近代スポーツ」をもたらしたのが外国人である点に注目した、「米国人教師が多かったので野球がサッカーよりも普及した」という答えである。だが、例えばいわゆるお雇い外国人については米国人よりも英国人の数が多く、文部省が招聘した外国人も米国人が他国に比べて多いということは認められない。そこで、野球の普及の過程を検討すると、定着に失敗した開拓使仮学校(後の札幌農学校)の事例から日本における「近代スポーツの普及の条件」が推察される。すなわち、(1)外国人から「近代スポーツ」を紹介されるだけではなく、指導する日本人(特に学生)の存在、(2)十分な道具の用意、(3)継続して普及に取り組む指導者の存在、が不可欠であることが分かるのである。
   また、日本における「近代スポーツ」の導入に果たした東京という都市の役割については、(1)東京の学校で学んだ人材が郷里や任地で後進に対して「スポーツ」を指導、(2)用具を国産化できる技術力と、実際の製造に携わる技術者や企業の存在、(3)「スポーツ」を行う場所の確保、という点が注目される。特に、「近代スポーツ」を行う場所としての東京に注目すると、明治時代における東京の構造的変化が大きな役割を果たしたことが示唆される。実際、明治時代に入り、東京では旧武家屋敷などの接収と皇族、華族、政府高官、財閥関係者などへの払下げ、官庁による旧武家屋敷の利用とともに、大学、専門学校、高等学校、中学校などによる旧武家屋敷の利用がなされた。とりわけ、大学などの学校は「近代スポーツ」が導入され、担い手となる学生が存在するだけでなく、「スポーツ」を行う場所も備えていた。こうした点が明治時代の日本の都市の中でも東京に特徴的な性格であった。
   以上から、日本における「近代スポーツ」の導入の特徴と東京の関係は次のようにまとめられる。
(1) 明治時代になって新たに首都となった東京には人材と技術が集積するとともに、欧米を経由して最新の文物がもたらされる。
(2) 特に「スポーツ」については、東京で学んだ学生が主たる担い手となり、最初は野球を中心に発展し、次第に他の「スポーツ」も盛んになる。
(3) その際、東京で生じた都市の構造的な変化が「スポーツ」を行う場所をもたらす。
   このように、必然的な要素と偶然的な要因が重なることで、東京は日本における「近代スポーツ」の導入と発展の中心地となり、「スポーツの都」と呼ばれうる状況が生じたのである。

   以上のような報告に基づき、陣内氏から「学校教育におけるスポーツの役割」、「近代化により都市空間で行われていた営みが施設の中で行われるようになったこととスポーツの関係」、「スポーツが行われた歴史と場所の歴史の関係」といった論点が提示された。
   今回の研究会の結果、都市論や名所研究の観点から「スポーツ」を検討することの重要性や近代以前と近代以降の「スポーツ」のあり方の断続性と連続性の考察の必要性などの論点が得られ、今後の江戸東京研究において「スポーツ」を位置付ける端緒となった。

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【記事執筆:鈴村裕輔(名城大学准教授/法政大学江戸東京研究センター客員研究員)】

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