シンポジウム・研究会等報告

2019年9月28日 研究会「美術という見世物―江戸から東京へ」開催報告

  • 更新日:2019年10月10日

 2019年9月28日(土)14時から、研究会「美術という見世物―江戸から東京へ」が開催されました(参加者73名)。なお、研究会のタイトルは、発表者の木下直之氏の著書『美術という見世物』(平凡社、1993年。サントリー学芸賞受賞)に由来します。江戸の都市の盛り場では見世物が気軽な庶民娯楽として人々を楽しませていましたが、明治以降、西洋から美術が輸入されると、伝統的な見世物小屋で美術が展示されました。また、美術館や美術学校が作られて、新たに「美術の枠組」が形成されました。こうした現象は、明治期において東京で顕著に見られたことで、江戸東京のユニークさやアートといった問題を考えるうえで注目すべきです。
 川添裕・横浜国立大学教授の発表「見世物の名所 両国の変容」では、江戸の盛り場・両国の空間的な意味が問題とされました。浅草とならぶ盛り場であった両国は、回向院を有する信仰の空間でした。明暦の大火時の身元不明の死者を埋葬した回向院は共同の墓所であり、そうした特殊な聖地が遊楽の場だったことに、両国の特徴が認められます。諸国秘仏秘宝の出開帳のメッカとなり、さらに人を呼んで繁栄したのです。魚介の乾物で三尊仏をつくる「とんだ霊宝」の見世物や、曲独楽、曲馬、軽業、動物見世物など、極めて多様な見世物があったことが示されました。しかし、明治5年頃を最後に西両国広小路での見世物は消失し、両国が交通、通運、物流の場所としての役割を担わされると、見世物のトポスとしての両国の求心力は失われました。その後、明治近代には見世物の新しい興行地があらわれ、見世物の中身も新時代に即した新種のものが多くなりました。さらに、明治以後の見世物の場として浮上したのが、横浜、銀座、そして上野であることが示されました。
 続いて、木下直之・静岡県立美術館館長による発表「美術の名所 浅草から上野へ」が行われました。両国と同様浅草も見世物で知られた盛り場でしたが、明治期に浅草と上野に公園が作られると、新しい時代にふさわしい見世物の場となっていきます。明治初期、五姓田芳柳と義松親子が、新しいタイプの見世物小屋(油絵茶屋)を浅草などで作り、当時のニュースなどを西洋伝来の油絵で描き、芸人の口上とともに客に披露しました。また、かつての日本において、公共的な場で見られる大きな絵といえば寺社の絵馬で、絵馬堂と美術館には、連続する面も認められます。浅草で人気のあった動物の見世物は、江戸の文化を継承しながら近代的な形に変容していきました。上野の博物館は西洋に倣って自然史も含めた森羅万象を見せる展示を目指し、生きた動物を展示して、寛永寺将軍家墓所近くでは家畜展示なども行われていました。浅草や上野の美術の場では、近世の見世物時代の古いやり方がなんらかのかたちで残りながらも、その見せ方が時代とともに変わっていったことが、数多くの資料から明らかにされ、日本と西洋の文化をめぐる、葛藤の様相が示されました。
 明治期の過渡的な「美術という見世物」の様相は、現代人が何となくとらえている「美術」や「アート」という常識的な概念を、根本的に覆す力を持っていたことが確認されました。最後に山本真鳥・法政大学経済学部教授(文化人類学)のコメントならびに発表者同士の対話がなされ、充実した三時間が終了しました。(横山泰子)

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