シンポジウム・研究会等報告

2019年11月17日 シンポジウム「江戸東京の東西南北」開催報告

  • 更新日:2019年12月05日

 去る2019年11月17日(日)午後、江戸東京のもつ多様性の一つとして、地域ごとの特性を歴史的な成立過程から考えようと「江戸東京の東西南北」と題するシンポジウムを実施しました。東京のなりたちをふり返れば、その骨格には、江戸城の西に広がる武家地として発展した山の手に、神田・日本橋を中心とする町人たちによる下町が商業地として対置されるという構造があるのはよく知られているとおりです。その対照的な両者がそれぞれ西と東に大きく拡張し、それを基盤として都市としての東京は発展してきました。また芝、品川から先は湾岸が埋め立てられるとともに東海道に鉄道が走った南部、上野・本郷といった文京地区を抱えつつ郊外として工業地帯となっていった北部と、方角ごとに異なる発展を遂げて今日に至ります。
 こうした認識のもと、建築史・都市構造の観点と都市を描く文学・美術の観点と、理系・文系からのまなざしを交差させるかたちで以下の4名のスピーカーによって多角的にこの問題に迫ったのが今回の企画です。司会も理系・文系双方から高村雅彦・小林ふみ子が共同で務めました。
 まず、前センター長でもある陣内秀信氏が山の手・下町の変容を論じられました。江戸時代以来形成された下町に東京の本質を求める見方が関東大震災を機に逆転し、以後それぞれが東西に広く展開するなかでターミナルとなる盛り場が西へと移動したこと、しかし事態は単純ではなく、庶民的ともいえる「下町」的要素が西側にも取りこまれるいっぽうで、近年はかつて「山の手」の専有的要素であった先進的な洗練された建築や文化的拠点が東側にも展開するようになり、それぞれの概念の交錯があることを報告されました。
 続いて、東京の南北にわたる地域が東・西とは異なる特性を持つ「サードドメイン」であることを提唱する日埜直彦氏が、地形に応じた土地利用に由来する地域の発達を論じられました。近代に入って、西郊に広がる水の得にくい台地が「山の手」のホワイトカラーの居住地に、また東側の水の豊富な地域が素材工を中心とする工業地帯となって非技能工が集住する地域となったこと、それに対して、南北の傾斜地の多い地域はもともと水車を利用したこともあって軍需工場・機械工業を支える技能工の住む街として、下町とも異なる特性をもつ地域になったという分析を提示されました。
 本学の名誉教授で日本近代文学、とりわけ私小説の研究で知られる勝又浩氏は、近代文学における東京の描き方を概観したのち、作家たちが引っ越しを繰り返すなかでそれぞれの地域を描く作品群を〈引越小説〉の系譜と名付けて論じられました。少女時代から東京の下町から北部を転々としながら貧しさのなかで多くの職業を経験した佐多稲子、大学進学のために上京して早稲田界隈などで下宿をわたりあるき、騒動あり、さりげない気づかいありの独特の人間関係のありようを描いた井伏鱒二から、それらの地域に人間教育の場としての東京が見いだせることを指摘されました。
 最後に、浮世絵、とくに明治版画研究の第一人者である岩切信一郎氏が登壇、歌川広重や渓斎英泉などを例として、浮世絵風景版画においては富士山・筑波山、日の出入り、橋の向きなどによって方角表現が明確に意識されていたことを論じられました。また東西南北をめぐるイメージとしては、西が富士山・京都そして西方浄土と重ねられて地図では上に描かれたこと、北といえば吉原遊廓、南といえば遊里でもあった品川宿と海辺の景色が結び付けられていたこと、近代に入ると写真も登場するなかで新たな名所は大きな建造物となり、現在の中央区周辺の新たな繁華街に集中していくことを述べられました。

以上のように、漠然と山の手・下町カテゴリーだけで分けて考えることのできない、地域ごとの特性、その交錯や歴史的変容、さらに空間的把握だけではなかなか見えてこないそこに生きる人間たちにとっての意味など、多岐にわたる観点を見いだし得た貴重な午後でした。また文・理の協働を進めていくことの意義もあらためて確認される機会となったと思います。(小林ふみ子)

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