研究会「東京の京友禅」
発表者:岡本慶子(法政大学経営学部教授)
コメンテーター:榎一江(法政大学大原社会問題研究所教授)
伝統ある京友禅であるが、それが大正・昭和初期の産業革命の影響下で、どのようなファッションを作り上げていったかがテーマである。発表者は、東京女子美術大学で染織を学び、テキスタイル・デザイナーとして働き、その後商品の企画、海外留学、営業として海外から商品調達の仕事をし、現在は大学で教鞭をとりつつ、研究活動を行い、日本のテキスタイルの海外普及にも関わっている。
手描き友禅は、17世紀に宮崎友禅斎が考案した。その前には絞り染め、型染めなどしかなく、フリーハンドで柄を染めるということはなかった。友禅染より前に刷り染めという技法があったが、刷り染めや刷友禅と呼ばれるようになった。
日本の産業革命後に写し友禅(型友禅)という技法ができ、その後シルクスクリーンや機械捺染も輸入されて、それらも友禅とされた。最近はインクジェットプリンタで染めた友禅もある。素材はいろいろだが、木綿に染めたのだけは友禅とは呼ばれない。在来の技術があったので、海外の染料を輸入するだけで、いろいろなことが出来るようになった。
一方開国後、モスリンの輸入が始まる。ウールのモスリンは発色がよかった。木綿に比べて暖かく、軽く、またしわになりにくく、安いために、長襦袢として普及し、外出着にも用いられ、大正の初めには国産ができるようになった。関東大震災後、絹の銘仙が流行することになった。銘仙は質の落ちる絹を用いて、無地や縞柄、絣などとなり、関東を中心に26年間で2億反生産された。上流階級では普段着に、下々では晴れ着となった。
さて友禅は、長い間高級品として、人々は晴れ着に用いてきた。普及版の新しい技術を用いた比較的安価なものが出回る一方で、手描きの高級品も作られていた。昭和7年~10年くらいで、銘仙は7円前後、モスリンは4円前後。友禅は、羽織が40円台、下の着物が30円台。仕立代も友禅はそれなりに張る。現在の日本橋あたりでは、大正となる頃、大店の呉服店がデパートになった。関東大震災後、技術の向上が安価な生地を生んだ。百貨店では陳列販売、定価販売が始まり、女性たちが自由に見て回れるようになる。大震災後には百貨店が中流の商品も扱う。しかし流行の発信地となるために、デパートは問屋と組んで、高級品の開発を行った。力のある問屋と一緒に、○○会といったものを作って、商品開発をして、陳列、図録の制作、江戸時代の衣装や古代裂などの収集も行う。その一方でもう少し安価なものも売った。京都の呉服問屋も、職人や関連の工房などと共に商品開発や展示会を行った。ため息をつくような名品が当時のカタログに掲載されている。今はどこにあるのか分からないが、コレクターが保存してくれていることを望みたい。しかし、昭和15年には高級品の生産を抑制する法律ができる。戦争中には生産は下火となり、残念な結果となる。
友禅とアートということを考えると、友禅は作られたときは商品。着物は古着になったときアートに変化する。維新の頃には、武士の家庭から大量に売りに出て、海外に流れていった。着物が特別なのは、生地が切り刻まれてしまうことがなく、一定の長さで保存されているということである。大正昭和の着物も現在では海外ではアートとして保存されている。商品としての研究も行われるべきであるが、日本人として、着物がどのように作られたかを海外の人にも説明できるようにしたいと考えている。
コメンテーターは、この分野の経済学的研究は製糸業・紡績業・織物業というふうに分断されて研究がなされているが、このようにそれを横断する研究は新しい視点を生む可能性をもっていて、大変興味深いと語った。生産過程の研究が経済史でも従来型であるが、最近は消費について考える方法が目新しい視点とされるようになっている。ファッション、消費といったところからの視点は今後ますます重要になっていくだろうと述べた。
(文責:山本真鳥)