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2021年01月23日 研究会「東京写真の新たな可能性」開催報告

  • 更新日:2021年02月19日

2021年01月23日(土) 14時00分~15時30分 オンライン(ZOOM)にて開催(参加者55名)

講演:丹羽晴美(東京都現代美術館学芸員)「東京写真の新たな可能性」
司会:岩佐明彦(法政大学デザイン工学部教授)
パネリスト:岡村民夫(法政大学国際文化学部教授)

 丹羽晴美氏は、1990年から2020年3月まで東京写真美術館学芸員として多くの写真展をメディア論の角度から企画しており、長年、法政大学国際文化学部で「写真論」の講義を担当してもいる。講演では「東京」を重要主題としている中堅写真家のなかから、2010年代以降、従来の写真のイメージを超えた制作をしている「いまのりにのった」四人、郡山宗一郎、西野壮平、鈴木のぞみ、春木麻衣子を以下のように紹介され、私たちの蒙を啓いた。

 森山大道や荒木経惟のストリート・スナップ写真がこれまでに「東京写真」のイメージを国際的に築きあげている。それに対し、これら四人の写真家は別の方法で都市生活のなかに潜在しているものの可視化するところにその新しさがある。

 郡山総一郎(1971-)は「Apartments in Tokyo」(2013-14)は、孤独死をした人のアパートを撮影したシリーズである。ドキュメンタリーフォトグラファーとして紛争地など、世界のホットスポットで写真を撮ってきた郡山は、東京で特殊清掃業に就きながらこの写真シリーズを制作し、2017年に東京都写真美術館のグループ展で発表し、反響を惹きおこした。亡くなったばかりの人物の生活の気配が定着された室内写真には、鑑賞者にみずかからの生き方を省みさせる力がある。現在、郡山は、まだ未発表だが樹海(自殺の名所、付近の住民の生活、自然の営みという諸次元が重層する地帯)を主題としたシリーズを制作中である。

 西野壮平(1982-)の「Diorama Map”Tokyo-2014”」は、東京をくまなく歩きまわりながら35mmフィルムで撮った数千枚の写真をコンタクトシート状にベタ焼きしたものを手作業でコラージュし、東京の「ジオラママップ」としたものだ。ただし地理的に正確なマップを目指しておらず、たとえばミス写真や、建物の尺度と不整合なポートレイト写真がそこに組み込まれている。そのことによって西野は、自分が体験した東京を生動する生き物のようにダイナミックに表現する。「フォトコラージュ」はこれまで多くの写真家が利用してきた手法にほかならないが、都市全体をそれで表現するというのは前例がない。国際的注目を浴びた西野は、その後、ロンドン、パリ、イスタンブール等、招聘された世界各地の都市の「ジオラママップ」を制作し、しだいに個人的体験に基づく写真をマップ内に含めるようになる。

 鈴木のぞみ(1983-)は「Other Days, Other Eyes」シリーズ(2013-)において、実際の部屋をピンホールカメラに仕立て、乳剤を塗った窓に風景を焼き付けたり、窓から見える光景の写真を窓に転写したりし、その種の写真を窓枠ごと展示した。この手法は、人の作為を介さなくても室内のそこかしこに映像は映っていると感じ、鏡や皿などに乳剤を塗って感光させたことからの展開である。「ヴァナキュラー写真」の影響を受けながら、鈴木は日常生活のなかに存在する無名のなんということのない風景を残したいと思っているのである。丹羽氏は2017年の展示に関わった経験に基づき、部屋をピンホール化して撮影をすることがいかに大変な作業であるのかにも触れた。

 東京に長年住む四人目の写真家・春木麻衣子(1974-)の「either portrait or landscape」(2010) は、都市の匿名的な風景(たとえば歩道橋)を判別しがたいほど露出をアンダーにし撮影し、抽象画のように画面構成したシリーズであり、「neither portrait nor landscape」(2010) は黒画面の小さなフレーム内に人物が見えるシリーズである。それらは、都市のなかで擦れ違う他者に私はどう見えるのか、都市のなかで人々はどのような距離にあるのかといったことの再考を鑑賞者に促す。コロナ禍によって都市のなかでの人との距離が急速に変容しつつある現在、改めて注目にあたいする仕事といえる。また、街路の歩行者が極度にぼやけ、かろうじて足元が写っているシリーズ「inner portrait」(2011)は、写っていない部分を想像させ、映像が認識にとってどれくらい有効なのかを考えさせる。

 以上のような順序での作家の紹介後、丹羽氏は、彼らの特異な仕事がいずれも「都市のなかに内在化しているもの、潜在化して気にならなくなっているようなものをわざと浮かびあがらせ」るという共通性を持っており、そこにこそ「東京写真の新たな可能性」があると考えるとまとめた。

 コメンテーターの岡村は、共通する特徴として、連作や特異な制作行程やインスタレーションを通じ、都市のなかの時間、痕跡、アノニマスなものを表現していることがあると思ったと述べたうえで、西野壮平の「ジオラママップ」を、イギリス出身でロサンゼルスを拠点に活動している画家・デイヴィッド・ホックニー(1937-)が80年代に手がけたフォトコラージュと比較した。多数の写真のコラージュを通して一点透視法的な空間を脱構築し、時間や視線の動きを写真に織り込むという基本部分で両者は共通している。ただしホックニーの場合、視点がもっぱら立った人物の視点であり、空間が比較的連続しているのに対し、西野の場合、高所からの俯瞰がドミナントで、スケーリングの振幅、空間の不連続性、視点の多様性がより大きい。ホックニーがカラー写真を選択しているのに対し、西野はモノクロに写真を選択しており、ホックニーの関心が空間表象の革新に集中しているのに対し、西野には社会学的関心が顕著に認められると思う。こうしたコメントに丹羽氏は、ビルの上から撮影する許可をえるのに作家は苦労しているので俯瞰写真には交渉した人物との関係が潜在していると応答され、また作家自身から日本の絵巻物を意識したと聞いたことを紹介された。

 陣内秀信が四人の写真家、殊に西野壮平の視点の自由さや多様性に日本らしさを感じると感想を述べ、西洋都市に比べて極めて断片的でありながら繋がっている東京の都市のダイナミズム自体がそれを支えているのではないかとコメントしたことも記しておきたい。
 
(文責:岡村民夫)

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