去る11月15日木曜日17時から20時まで、市ヶ谷キャンパスボアソナードタワー25階にて、「江戸東京の『ユニークさ』」研究プロジェクトの研究会を実施した。
今回の研究会は、前回の江戸名所研究を中心とした報告(6月23日開催)を踏まえ、「近代東京名所研究の課題~史資料に表現された江戸東京」と題して、江戸東京研究センター研究員の米家 志乃布(文学部教授)、同研究センター長の横山 泰子(理工学部教授)が報告し、両報告を踏まえて、前センター長の陣内 秀信(法政大学特任教授)がコメントした。
本研究会の趣旨は以下の通りである。
徳川の「江戸」から天皇の「東京」へ。江戸の名所は東京の名所に引き継がれたのか、断絶したのか、それとも新しく生み出されたのか。なぜ人びとは名所を欲するのか。都市の変容と名所記述の特徴を、明治・大正・昭和に作製・出版された様々な地図・名所図会・観光ガイドブックなどの史資料、そして近代東京を代表する随筆家・洋画家である木村荘八によって表現された東京をもとに検討し、近代東京名所研究の新たな課題を考える材料とする。
第1報告は、米家による「近代東京の名所‐地図・名所図会・観光ガイドブックから」と題し、各史資料に沿った先行研究を踏まえ今後の研究課題を提示したものであった。
まずは、近代東京の名所が先行研究でどのように議論されてきたのかを整理した。その際、研究に利用されている史資料として、東京案内本(東京名所図会、帝都案内、大東京案内など)、ガイドブック(ブルーガイド、JTBポケットガイド、るるぶなど)、名所絵や名所写真(石版画・銅板画、絵葉書、写真帖など)などがあることが紹介された。
続いて、近代東京の名所研究の史資料として、「都市図」「東京名所図会」「東京案内」の三点を挙げ、各史資料を用いた研究のありかたが提示された。
まず、「都市図」においては、名所に注目するためには、官製・実測の地形図ではなく、民間発行の都市図が適していることが指摘された。なかでも、幕末日本から作成されていた「一覧図」形式のものや「鳥瞰図」などの地図を発掘し、それらを分類・分析していく必要性が述べられた。
次に、明治期に刊行された東京名所図会類のなかでももっとも「明治時代の東京を知るには一番必要な資料」(永井荷風)とされる『新撰東京名所図会』(雑誌『風俗画報』特集号 明治29年から刊行)に注目した。そこに取り上げられた膨大な明治東京の名所の全体像を把握し、マッピングすることによって、江戸から明治の都市の変容を明らかにすることができると指摘された。膨大な作業であるものの、学生達との共同作業で進められていることも述べられた。
さらに、「東京案内」本の分析では、先行研究では手薄な昭和の戦前・戦後への変化、現代までの変遷について明らかにする必要があるとした。以上、3点の史資料類を用いた名所研究の新たな研究の方向性が示された。
第2報告は、横山による「木村荘八が描いた東京名所~居住者と散歩者の視点」であった。
荘八は明治の実業家木村荘平を父に持ち、生家のいろは牛肉店は浮世絵や東京案内記、東京の地図に掲載されていた。かくの如き家庭環境ゆえ、荘八は東京の名所の住人であり、居住者としての視点で名所をとらえていた。若い頃から東京に対して愛着を持っていた荘八だったが、外国旅行と関東大震災を経てからは、積極的に東京を歩き絵と文で東京を記録した。
また、東京を「こり固まりでなく、自由に動く、人と時代につれて動くその変通性」の都市としてとらえている(「私の見たる東京」)。
そして、東京が変化の激しい都市であることを意識し、変化があるがゆえに記録し、表現する必要があると考えていた。
木村荘八の作品から東京の名所に対する指摘を挙げると、まず江戸から東京へと時代が変わったことで、かつては名所「絵」で示されていたものが写真にとってかわられたという(「名所図絵式の消長」)。
また、名所案内記の編纂は難しいもので、大通りの写真はあっても路地の写真が掲載されることはないとも述べる(「両国界隈」)。路地等に見られる人々の生活の契機に面白さを感じていた木村荘八は、案内記類の情報には載らない情報を重視し、生活者としての思い出や手描きの地図などで表現しようとした。『東京繁昌記』においては、名所成立には時間が必要であると述べ、東京名所の傑作としては銀座と浅草を挙げつつ、名所の成立と存続は予測が不可能であるという。
以上から、近代東京の名所の特徴として、変通性の都市であるがゆえに、東京では名所じたいが変化しやすく追憶の対象になりやすいことが考えられる。また、名所の表現・記録方法の変化によって、名所のあり方も変わった可能性がある。
さらに、広大な東京では住民であっても全てのエリアに精通することはできないため、誰にとっても東京は観光地になり得る。また、東京の名所観光も多様なかたちになり得る。
以上の報告をふまえ、コメンテーターの陣内からは、米家の報告については、民間発行の都市図に関して、「一覧図」形式のものや「鳥瞰図」などの地図の描き方に興味深い変化が見られたこと、西欧の地図から学びつつも日本独自の表現が用いられた可能性があることが指摘された。
また、日本の名所には自然との共生があったはずだがとの会場からの指摘をもふまえ、江戸時代と明治期の「名所双六」を比較すると、明治には西洋から導入された洋館などがモニュメントとして表現され、水や緑の自然に包まれた名所の表現が後退するなど、時代によって名所の考え方や表現が変化したことが示された。
また、『新撰東京名所図会』などに登場する名所情報を地図にプロットする方法に関し、前身としての江戸の都市との繋がりで仮説、ストーリーを想定して作業をするとよいのではとのアドバイスがなされた。
横山の報告については、自在に変化する東京にある種の共感を覚え評価する木村荘八が、東京の名所を選び描く際には、どういう価値観、スタンスで何をどう描こうとしたのを考察することが重要で、さらには、明治から昭和初期の文学、絵画における他の作家など(永井荷風、小林清親他)とも比較してそれを論ずるとより面白くなるとの指摘がなされた。
最後に、名所のあり方が、近世を受けつぐ伝統社会から近代に移行する際に、経済、産業、交通、都市構造のあり方と連動して大きな変化が見られたことに触れつつ、名所研究が、江戸東京のあり方の本質を突く上できわめて普遍性をもった重要なテーマであるとの認識が示された。
一般の方を含め、50名余の出席者を得て、各報告への質疑応答や全体討論など、活発に行われた。
来場してくださった皆様に感謝いたします。
【記事執筆:米家 志乃布(法政大学江戸東京研究センター兼担研究員)】