2022年3月11日(金)午前・午後にかけてシンポジウム「大正・昭和の吉原遊郭」を開催しました。この企画は、先年、当センターで、明治末から昭和初期にかけての吉原をはじめとする近代遊廓についての筆録の寄贈を受けたことに始まるものです※ 。その分析を近代吉原のオーラルヒストリーを手がけられている安原眞琴氏(立教大学・法政大学)に依頼、そのご報告と併せて、その時代以降の昭和の吉原の記憶を語りとしてとどめようということで吉原神社総代の吉原達雄氏、吉原商店会会長不破利郎氏をお招きしてそれぞれの記憶のなかの吉原についてお話しいただきました。対面およびオンラインのハイフレックス方式で開催し,参加者は130名にのぼりました。
安原氏からは筆者中野幸吉の経歴から、吉原・根津・洲崎の遊廓につながりがあること、激化する廃娼運動に楼主らがどう対応したか、単純な「廃娼」では済まない複雑な問題を考えていたこと、また伝統的な年中行事の維持、復活などのこころみなどが見えてくることが報告されました。
吉原氏からは昭和20年代以来の吉原の姿を、ご自身の歩みと重ねて多くの写真を交えて紹介いただきました。とりわけ、関東大震災時に吉原では約3000人、そのうち弁天池で650人が亡くなっているという事実があり「足元にそういう人たちがいて」今があるのを忘れないよう、町会長として弁天池の地に神社を作って祭るようにしたという話が印象的でした。不破氏もご自身のライフヒストリーとともに吉原の歩みを語られ、赤線廃止後、昭和40年代なかばまでは風俗街ではなく、修学旅行生や行商人が泊まる普通の旅館街としての時代があったことなども紹介されました。
これらを受けた田中優子氏(法政大学)のコメントでは、行事・慣習・服装・芸事、さらに所作・会話・精神的成熟も含めた多くの文化を育んだ中心としての吉原は、近代に至って単純に衰退したのではなく、中野手記に記されるようにあらたな展開を見せたことがわかること、そうした文化的役割の大きさの反面、借金に拘束された女性たちによってそれが成り立っていたことに向き合う必要があるといったことが語られました。
最後の総合討論では会場からの質問に答えるかたちでさまざまな議論がなされました。光だけでなく影の部分も語られ、さまざまな女性たちが来ては去り、生をまっとうできなかった人たちも少なくないさまを見てきた経験から、そこで生きざるを得ない女性たちがいる事実をうけとめて彼女たちが生きていける社会が必要だという吉原氏のことばでしめくくられ、多くのことを考えさせるシンポジウムとなりました。
この成果は今年度中に報告書としてまとめることを予定しています。(小林ふみ子)
※寄贈資料の概要は当研究センターのWebサイトにて公開しています。
https://edotokyo.hosei.ac.jp/books/books-20220413152327