シンポジウム・研究会等報告

2023年10月21日 シンポジウム「関東大震災100年 大地震と都市空間~過去に学び、近未来を描く」開催報告

  • 更新日:2023年11月20日

2023年10月21日(土)午後、法政大学富士見ゲート棟G401 教室において、法政大学地理学会と法政大学江戸東京研究センターの共催で、シンポジウム「関東大震災100年 大地震と都市空間~過去に学び、近未来を描く」を開催しました。
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 2023年は、「関東大震災」という大地震とそれによる災害が起きてから100年になります。そのため、日本各地で関東大震災を振り返る様々なイベントが行われています。この100年の間、日本とりわけ東京は大きく変貌してきました。そして、まさに現在進行形で大規模な開発が進んでいる状況でもあります。高層ビル、住宅、店舗の立ち並ぶ賑やかな東京の街を見ると、かつての大災害ははるか昔のことのように感じます。そして、多くの人々の記憶からは、忘れ去れている出来事なのではないでしょうか。本企画では、法政大学地理学会と協力し、改めて、東京における過去の災害とその復興過程、当時の人々の想いを振り返り、大地震と都市空間の関係を考える企画をもうけました。

 まず始めに、法政大学地理学会副会長の中村圭三氏から開会の挨拶がありました。次に、法政大学江戸東京研究センター長の米家志乃布氏(法政大学教授)による江戸東京研究センターの紹介がありました。

 基調講演として、法政大学江戸東京センター特任教授である陣内秀信氏より「「関東大震災と東京の復興‐建築・景観・思想・コミュニティ」と題してお話がありました。1980年代、東京の街を徹底的に歩き、当時の街の状況をつぶさに調べた経験を踏まえながら、関東大震災後の復興事業によってつくられた空間や都市景観が、いかに公共性や都市美に優れていたか、多くの当時の写真などをもとに説明されました。震災復興において区画整理は重要な事業の一つでした。その過程で、本来の土地に居住するために多くのバラックが建設されます。また、防災用の小公園を東京市内各地に整備します。東京の都心を中心に、鉄筋コンクリートの小学校を建設し、小公園はそこに併設します。隅田川に架かる橋梁も新しくなります。とにかく、それらすべては、震災後における東京の復興景観の特徴でもありました。さらに、震災復興の事業として有名な同潤会アパート建設は、コミュニティを大切にし、その土地やその場所の社会的性格や雰囲気などと絡めてそれぞれのタイプが決められ、行われました。陣内氏がピックアップした豊富な写真や資料をもとに、震災復興事業の思想、手法、デザイン、都市美、公共性、公益性、コミュニティの意識、などが語られ、当時の人々の考え方には、「家に住むだけではなく街に住む」というスピリットがあったことが述べられました。

 続いて、シンポジウムのプログラムにはいります。法政大学地理学会集会委員長の小原丈明氏(法政大学教授)による司会のもと、3人の報告者による研究発表が始まります。

 まず1人目の宍倉正展氏(国立研究開発法人産業技術総合研究所地質調査総合センター・連携推進室国内連携グループ研究グループ長)は、地震学の立場から、これまでの歴史地震研究を踏まえ、「地形,地質,歴史記録からみた関東地震の履歴と将来予測」と題して報告がありました。本報告では、関東震災・地震のメカニズムについての詳細な解説のあと、歴史記録による関東地震の履歴を復元する作業がどの程度まで行われているのか、が説明され、さらにこれらの作業がまさに将来予測につながっていくことが提示されました。関東地震にはプレートが沈むときと割れるときに起こるものがあります。プレートが沈み込むかたちでの関東地震の頻度は、200年ちょうどで地震は繰り返すのか、あるいは400年とばらつくかという推測の両方があるものの、これまでの宍倉氏達のチームによる津波の堆積物や地形・地層についての研究成果によれば、400年という見解であることが示されます。一方で、首都直下型の地震は、プレート自体が割れるかたちでの地震であり、関東の地下にあるプレートは3枚も重なって複雑なため、いつどこで起こるかわからないことから、予測がたてづらいことも述べられました。つまり、マグニチュード7クラスの首都直下地震は頻発する可能性があるということで話は締めくくられています。

 つぎに日本経済史の立場からの報告です。鷲崎俊太郎氏(九州大学経済研究院准教授)による「関東大震災と丸の内・内幸町‐東京経済と三菱における地所経営の変容」では、三菱による内幸町(現在の新橋から有楽町の間)の貸地貸家業について、震災前と震災後の変容について論じられました。まず、日本経済史では、1910年代の大戦バブル景気と1929年の世界恐慌以降の昭和恐慌の話が重要であり、同時代の関東大震災そのものについては、大きなインパクトとしては論じられない傾向にあることが述べられます。とはいえ、東京の産業を考えると、金融・サービス業が中心であり、その点のインパクトは相当あったのではないか、また、東京の大土地所有者を見ると旧財閥系が上位にあり、関東大震災前後の丸の内の開発の担い手であった三菱の動向をおさえることは重要なことであることが、本報告では示されました。具体的な分析としては、関東大震災における火元のひとつとなった内幸町における地代と地価の変遷、震災後の土地の売却、不動産額としての上昇ということが三菱家の一次史料をもとに考察されました。これにより、関東大震災後の1920年代後半は、東京の大土地所有者にとって、まさに土地の売り時であったということが結論づけられます。

 さらに表象文化論の立場から、岡村民夫氏(法政大学江戸東京研究センター 研究プロジェクト・リーダー/国際文化学部教授)による「故郷喪失から新たな故郷へ‐芥川龍之介、堀辰雄、立原道造の関東大震災経験」と題された報告が行われました。関東大震災に関しては、多くの文学者が経験し、すぐに様々なことを書いています。そのなかでも、下町生まれで罹災した文学的に師弟関係のある芥川龍之介・堀辰雄・立原道造の3人が、関東大震災をどのように経験し、その後どのように震災復興を生きたのか、という点に絞ったものでした。岡村氏は、立原道造の人生について詳細な著作を発表しており、今回の報告でも、立原の震災経験に最も重点のおかれた話になりました。立原は、東日本橋の立花町で生まれ、そこで罹災します。その後も、看板建築の自宅二階にある屋根裏部屋で過ごしました。東京帝国大学工学部建築学科に入学し、卒業後も建築にかかわる仕事にもつきますが、24歳の若さで、病気により亡くなります。立原は、震災前の下町に愛着・ノスタルジーを感じていた一方で、積極的に、昭和モダンの代表ともいえる鉄筋コンクリート・RC建築を学んだ人物でした。しかし、岡村氏が報告において注目した彼の作品は、最晩年に浦和芸術村の一員として居住するために設計した住宅でした。片流れの屋根で木造、緑色の金属板が貼られたワンルームであり、この住宅のデザインは、震災後に東京市内に多く存在したバラックと同じであることが指摘されました。ここに立原の震災経験の具現化を見出すことになります。芥川・堀・立原は、共通して、震災を通じた故郷喪失者となるのですが、それぞれの故郷喪失の在り方や対処の方法が大きく異なります。同じ震災経験でも個人によってその想いは様々です。このことは、現代の私たちにもつながる経験であるともいえるでしょう。

  以上、3名の報告のあとに、それぞれにコメントがありました。宍倉報告にあったように、地震には様々なタイプがあり、とりわけ、首都直下型地震の場合は現在の科学では予測が難しいことが確認されました。その点を踏まえて、現在の私たちが生存率をあげるためには、ハザードマップ等を参照し、津波被害や土砂災害の少ない場所や耐震性能の保証された家屋に住むなど、日常的な生活の中で工夫していかなければならない、と前杢英明氏(法政大学文学部教授)はコメントしました。

 次に、米家志乃布氏が、鷲崎報告の興味深い点について解説いたしました。ひとつは、内幸町での罹災の具体的な分析はめずらしい点、2つめは日本の戦前の工業立地の点、3つめは震災の被害によって更地になってしまったことでのビジネスチャンスの点などが挙げられました。岡村報告には、同じく米家氏より、生粋の東京人ほど、震災前の東京を回顧してしまう、それは常に風景が変わっていく東京だからこそ、ノスタルジーが強くなるのではないか、とコメントがありました。

 最後に全員での討論では、フロアからの質疑応答も含めて、多岐にわたり議論が展開いたしました。大変有意義な講演・報告、ディスカッションにより、本シンポジウムの目的である、「過去の東京を学ぶことで近未来の東京の在り方を問う」ことができた企画であるといえるでしょう。対面開催のみとなりましたが、開催当日には多くの方々に会場に足をお運びいただきました(参加者総数約80名)。心より御礼申し上げます。

 本シンポジウムの開催報告は、法政大学江戸東京研究センター年度報告書Vol.7(2024年3月刊行(予定))に再掲する予定であり、さらにシンポジウム登壇者皆様によるご講演・ご報告の原稿は、法政大学地理学会『法政地理』第56号(2024年3月刊行)の「シンポジウム特集」にも掲載する予定です。そちらも合わせてご覧いただければ幸いです。
(米家志乃布)

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